最近見た映画のメモ 2022/04/11

を、しちゃおうかな♪

・真夜中の虹/アキ・カウリスマキ(1988)

・浮き雲/アキ・カウリスマキ(1996)

ベイビー・ドライバー/エドガー・ライト(2017)

パンズ・ラビリンス/ギレルモ・デル・トロ(2006)

・ラビリンス~魔王の迷宮~/ジム・ヘンソン(1986)

・音楽/岩井澤健治(2020)

「英傑の加護」リキャスト時ボイス(日英仏三言語)を書き起こしてメモってみたヨ【BotW】

セリフ集などなかったので自力で書き起こした。リキャスト時ボイスの対訳置き場(ミファーのみ発動時ボイスも)


ミファー(Eng:Mipha, Fra:Mipha)
ミファーの祈り(Eng:Mipha's Grace, Fra:Prière de Mipha)

リキャスト時:
日「ミファーの祈り、いつでも使えるよ」
英「Mipha's Grace is ready.」
仏「Tu peux utiliser ma Prière à tout moment」

発動時:
日「私が守る」
英「It is my pleasure.」
仏「Je te pretégerai.」


リーバル(Eng:Revali, Fra:Revali)
リーバルの猛り(リーバルトルネード)(Eng:Revali's Gale, Fra:Rage de Revali)

日「リーバルの猛り(リーバルトルネード)、準備オーケーだ」
英「Revali's Gale is now already.」
仏「Sers-toi de ma Rage quand tu veux.」
←この動詞部分だけマジでわからん。サール(sarsとかseursとか?)みたいな発音で主語はリーバル(=一人称)かつ直説法現在形で、「貸す」とか「あげる」の意味の他動詞ってのは推測できたけど圧倒的に語彙がなさすぎて見当のつけようもない。助けて 「se servir de~(~を役立てる)」という表現があるという学びを得た。まさか主語がリンク(=tu)でtoiが再帰代名詞teの変形だったとゎ...


ダルケル(Eng:Daruk, Fra:Daruk)
ダルケルの護り(Eng:Daruk's Protection, Fra:Bouclier de Daruk)

日「ダルケルの護り、いつでも使えるぜ」
英「Daruk's Protection is now already to roll.」
仏「Tu peux utiliser mon Bouclier de Daruk quand tu veux.」


ウルボザ(Eng:Urbosa, Fra:Urbosa)
ウルボザの怒り(Eng:Urbosa's Fury, Fra:Colère d'Urbosa)

日「ウルボザの怒り、いつでも放てるよ」
英「Urbosa's Fury is ready.」
仏「La Colère d'Urbosa est à ta disposition.」



所感:
・仏語リスニングむっっずい。英語の5倍むっっずい。

・でもウルボザは2回くらいで完璧に聞き取れたし、est à ta(エタ タ)のリエゾンは一回で聴解できた。嬉しい。

・逆に英語でもダルケルの「to roll」は at allのアメリカ口語発音だと勘違いした。roll,rollかあ...

・オタクすぎてミファーの一人称が「私」なのか「わたし」なのか調べてしまった

・quand tu veuxが全然わからず、はじめの方はquand ?? vous みたいな表記だと勘違いしていた。

・でもリーバルがvousなんて使うかな...?と思い保留してみて、ダルケルで全く同じ発現を聴いてtu veuxと言っていることを確信した。ouとeuの判別は難しい...

・「se servir (=自分を仕えさせる)」で「役立てる」を意味するのは再帰構文の微妙なニュアンスがわかりかねるので下手なことは言えないけど、「僕の能力をせいぜい役立ててみな!」みたいなリーバルの高慢な感じが出ていてなんか良いと思った。

・「リーバルの猛り(トルネード)」の日本語特有のルビ芸、英語だとgale(突風)、仏語だとRage(怒り)とそれぞれ訳していて、どっちに意味の重きを置いて訳すかに個性が出ていて面白い。

・「ma Rage(僕の怒り)を使いなよ!」という訳もそうだけど、「怒り」を能力の言い換えとして用いて通じるっていう詩的な通念がフランス語にもあるんだろうな。英語はどっちかといえば直接的な表現を好むってことなんだろう

・ウルボザ、この表記だとフランス語でも[ウルボザ]でいいはずだけど、[ウルボッサ]に聞こえる。うーん謎だ

・このメモ、台詞がまとめてあるサイトが一見してヒットしなかったから調査して書いたんだけど、書き起こしの精度をチェックするためにダル
ケルの仏文をそのままコピペしたらRedditのスレッドが見つかっちゃったんだよね。これ→https://www.reddit.com/r/Breath_of_the_Wil/comments/bvz2zc/people_who_play_the_french_version_do_you_know/

・おかげでTuとJeの細かい聞き違いとかSers-toiのハイフンとか修正ができたけど...取り越し苦労感がすごい。

・取り越し二郎(後悔先だたぬ)

・まあ書き起こさなきゃ見つけられなかったわけだし、自分の努力は決して無駄ではなかった(と、思いたい)


結論:
大好きなゲームをいろんな言語でやってみると面白い

追記:取り越し苦労じゃなくて「骨折り損」だこれ

最近観た映画の話2

承前

映画、観たら感想なりをアウトプットするまでがワンセットだと思っていて、それがなければ観る意味がほぼないようなものだと思っているんだけれど、「なるべく人に見られて面白いように画像とか入れよう」とか「ネタバレに配慮して折りたたみにしよう」とか考えて書くのが面倒すぎて、ここ4,5ヶ月で観た映画に関しては全くフィードバックを書かずにインプットし通しだった。
これでは本末転倒だし健全でないので、そういうのもう完全に無視して自分用の備忘録として書こうと思った。
世のブロガー達はすげえよ。どうやってあんな面白い複雑な記事を書き続けるモチベを維持してるんだ。

1. 気狂いピエロ(1965)/ジャン・リュック・ゴダール

フランス映画にも手を出すならゴダールを観なきゃ、と思って観たやつ。
出鼻から殺人暴力暴力のオンパレードで治安が終わっていて面白かった。登場人物たちはみんな真面目にやってるからなおさら。
ファム・ファタールものというジャンルには疎いので、感想としては女悪すぎ男アホすぎというのが一番強かった。
トリコロールが嘘みたいに綺麗な画はすごく良くて、終始画面のどこかに青赤白が写っている。
その塩梅も程よくて、くどすぎず、でもずっと鮮やかに美しい。色彩にかけてはほんとに好みだったな。(もちろんそれ以外が悪いという意味ではない)
詩の引用が多かったけれど、フランス文学の教養がもっとあればもうすこし面白みがわかったのかな。惜しい。
突然のピカチュウはめっちゃ笑ったけど今やったらバチバチに叩かれて炎上しただろうな。

2. 勝手にしやがれ(1960)/ジャン・リュック・ゴダール

ピストルズのアルバム名と同じだ!ってことで次に観たけれど、どうも両方とも原題はまったく違うらしい。でもかっこいいよね。
こっちの映画も倫理観と治安が終わってた。GTAの世界か?と思うくらいシームレスに殺人から自動車重窃盗をやるのでさすがに笑った。
気狂いピエロ」はまあ逃避行の為っていう一応の切迫した事情のもとでの犯罪だったわけで、情状酌量の余地はあるんだけど、こっちは「パリに住んでるあの娘に会いに行っちゃお!足がないから車奪ったれ!」くらいの軽さだったので、その方がよっぽど倫理が欠けている。
これを観た後に攻殻機動隊SACを観始めたんだけど、劇中にこの映画の原題(とあるワンシーン、こっちは気づかなかった。)の引用があったのを発見できて少し嬉しかった。これは余談。

3. 8 1/2 (1963)/フェデリコ・フェリーニ

正直あまりおもしろくなかった。
新作の制作に行き詰まった映画監督が半生で関わった女性たちを回想しながら結局病んで自殺する...というストーリーの映画であることは、一回観れば分かることだけれど、逆を言えば一回観なければ分からないことでもある。
初見の自分には先の展開が読めないままちゅうぶらりんがず~っと続く退屈な映画だとしか感じられなかった。
難解な映画というのは聞いてたけど、難解であっても緩急は欲しかったな。
もう1回観れば面白くなるかもしれない。
他のフェリーニの映画も先に観ておけばよかったかもしれない。実際に本人が9作目の制作にあぐねて作った「8と1/2作目」らしいし。

4. タクシードライバー(1997)/マーティン・スコセッシ

有名らしいので観た。
最初に思ったのが「"ジョーカー"っぽい!」で、実際ジョーカーの元になった映画らしい。
戦争のせいで人間性と共感性を欠いちゃった主人公がポルノ映画に女の子を誘うシーンは、面白うてやがて悲しきユーモアを感じられてよかった。
というかこの主人公、やること全部が裏目にでていて可哀想だな。
裏目が好転してヒーローになった結末もアイロニックで、一貫したものを感じるな。
それと音楽!この劇伴はすごくいい。
特にオープニングの、フロントウインドウからの夜の街にクレジットを表示していたシーンの音楽はものすごく雰囲気ができていてよかった。

5. CUBE(1998)/ヴィンチェンゾ・ナタリ

言わずとしれた低予算映画の金字塔(らしい)。
実際変わりばえしない背景に飽きさせない面白い設定とストーリーだった。
ヒロイン(?)の計算能力については、まあそこまで気にはならなかった。
さすがに3の倍数くらいわかるだろとは思ったけど。
あと警官役のおっちゃんめっちゃフレディ・マーキュリーに似てない?似てるよね?


ちょっとまってくれ、意外と多くなってしまった。
そういえば夏休みの一週間くらいは毎日一本映画を観ていた気がする。
さすがに文字数が2000字を超えると人に見られるにも自分が見返すにもよろしくない。
「2」はこのへんにしておいて、あとふたつくらいの記事に分けて書こう。

ある日、尿路に石が配布された

 


こちらが @Fuji_signさんの
9月1日です
いって~~~~~~!
起床時 左脇腹に鋭い痛みがあるのを見て
助けの朝電を出したら 同期からの誠意で
病院への送迎をサービスしてもらいました
俺の体調次第でこの休み病院で潰す事だってできるんだぞって事で
お願いしま~~~~す!まずはエコーから
コラ~!
これでもかって位腫れ上がった腎臓の中には
石が入っており 痛みのあまり
胃の内容物を全部吐いてしまいました~!
すっかり病状を弁え 誠意のロキソニンを貰った所で
お次に 圧倒的存在感のチアトン
啜る~! 殺される~!
ワシワシとした服用間隔の後半には、朝と同じ鋭痛が入っており
さすがのSUSURUも お布団に入って行ってしまいました~!
ちなみに、私が闘病している様子は ぜひサブアカウントをご覧ください

ぼんやり考20210512

・なんの講義だったか、日本語はガラパゴス化できるほどに複雑で高度な言語なので英語がそれほど広まらなかったみたいな話をされた。
・外国語の習熟度の目安の一つとして、「抽象的な概念を表現できる」みたいなものがあったけれど、これに通ずる気がする。言語の能力においては、その言語で抽象概念を説明できるとか、考えることができるとかが結構重要なんだろうな。
・それで思い出したのは、「アラビア語は厳格すぎる」みたいなブログの記事で、その中でブログ主は「でもこんなにキッチリした文法を持った言語だから、哲学とか医学が発展したんだろうな」というようなことを言っていた。
・なんの記事だったか忘れた。出典不明は良くない。この人の記事なのは確かだから一応貼っておこう
kiriusa.at.webry.info
・それで、アラビア語だけじゃなくて例えばドイツ語だって医学やら哲学がものすごく発展した圏の言語じゃないか、しかもいろいろと決め事が多くて難しい(らしい)。やっぱり言語の厳格さと思考の複雑さはある程度正の相関を示すんじゃないか、なんてぼんやり考えた。
言語学の人間でなければ哲も医もまるで門外漢なので、素人のものすごく適当な雑感でしかないけど。

最近見た映画の話


がしたい。します。最近とは謳ってみるけど3ヶ月くらいは遡ると思う

※本記事は以下タイトルのネタバレをそこそこ含みます。バレを踏みたくない人は薄目でご覧ください。
シェルブールの雨傘
ファイトクラブ
・セッション
・ハッピー・デス・デイ
・へレディタリー 継承
・ビッグフィッシュ
・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
希望のかなた
・告白

シェルブールの雨傘



ファイトクラブ



・セッション



・ハッピー・デス・デイ



・へレディタリー 継承

・ビッグフィッシュ



・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)



希望のかなた


・告白


(おまけ)

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カトリーヌ・ドヌーヴ(上:シェルブールの雨傘 下:ダンサー・イン・ザ・ダーク)

焦って成熟しようとしなくてもいいんじゃないか

表題は最近なんとなく思うこと。自分は好き100%でいろんなジャンルの音楽や映画に触れているけど、世間には「教養として」とか「音楽や映画に人並み以上に明るくなりたいから」とかいった理由で同じようなことをする人もいる。そこに問題など一分もないけど、*120やそこらの「弱冠」が枕に付くような年齢のうちは、そんなに成熟を求めなくてもいいんじゃない、とも思うわけだ。変に義務感に駆られてコンテンツに触れようとすると素直にそれを楽しめなくなりそうだし。それに、義務感が自分に向いてるうちはいいけれど、それを他人に向けるようになってしまって、ポップしか聴かない普通の人(恐ろしいことに音楽を真剣に聞いている人間というのはマイノリティなのだ。)を軽蔑し始めたらこれもまた大変だ。誰も幸せにならない三方悪しの最悪なディスコミュニケーションが完成してしまう。若いうちは背伸びして成熟しようとせず、成熟に憧れて先鋭化しようとせず、ただ気と好奇の心の赴くままに色々なものに触れて、自分をしっかりと知ることが肝要なんじゃないか。その長い過程を経ることこそが「成熟」であり、その結果としてやっと得られるものこそが「教養」なんじゃあないか。

眠れない暇を持て余した夜にぼんやりとこう思うわけだ。

 
 
 
 
 
 
 

*1:どうでもいい話、この前あるマンガを読んでいて「弱冠33歳」という表現が出てきて驚いた。だいたい18-25くらいが許容範囲だと思っていたので。本来は20歳限定の修飾だし。